秋田のごうけん君殺害事件は発作的事件となったようだ。
ちまたでは発作的とするにはあまりにもつじつまの合わない部分が多い、おかしいおかしいと言われていたが、それを証明する証拠が出てこないということか。
証拠がない以上仕方がないということだろう。証拠が出てこなくても、おかしいことに違いはないが。
おかしいということ自体はどうするつもりだろう。計画的とする証拠がないので発作的となる、ということでしょうか。発作的とするにはつじつまのあわないことが多いので、計画的とするのが適当、とはならないわけだ。
こんな禅問答はどうでもいいので、警察は本質を突いた捜査と尋問をしっかりやらねばならない。一定時間内に捜査を済ませざるを得ないということは法治国家として守る必要はあるが、だからといって不十分なままでいいのか。この事件の影響の大きさを考える必要がある。
この世の中は100%黒か1白かどちらかというわけではなく、51%の黒と49%のしろなどといった、つまりグレーの部分があるということだ。計画性があるかどうかが事件の解決にとても重要で、100%の発作的ならばその通りだが、1%でも計画的部分があるということはすなわち計画的であったということになる。
なぜ着物の紐が玄関にぶら下がっていたのかわからない。だから本人の言うとおり、なんとなくいつのまにかぶら下がっていた。計画性がないということではなく、ぶら下げた時点から計画が始まったとするが妥当だと思う。
なぜその計画が始まったかは、確かに本人が話さない限り、その本人の気持ち自体はわからない。わからなければ量刑が決まらない。そうなるのだろうか。
それにもう一つ。どのような理由にしても目の前にいる近所の子供の首を締めるという異常な行動をする人間をまかり間違っても執行猶予つけて結局無罪放免にするようなことがあってはならないということだ。
法律的に裁いたつもりだろうが、実質的に社会的制裁を受けることにはならない。簡単に破産宣告を受け、生活保護を受けている人間だ。一般国民として社会に何ら貢献していない人間をなぜ国民の税金で保護しないといけないのか。社会福祉法の趣旨とは随分と違うのではないか。
犯罪者は刑務所で罪を償ってその後は社会に恩返しをする必要がある。罪を償って後は自由ということではない。
罪を償ったはずの人間が、再び事件を起こす。そんな話はよくあります。個別の事件は反省し罪を償ったが、また犯罪を起こす。これでは何にもなりません。
反省した人間は、要するに事件は起こさないのです。だって反省したはずだからです。それに大半の人間は事件自体起こしません。法律というモノはそもそもそのように作られています。